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日本史の研究No.39
江戸幕府 の 官僚体制化

 江戸幕府の時代は、1867年の大政奉還に至るまで、都合264年間に及びました。室町幕府の235年を上回るとともに、最後まで強固な幕藩体制が維持されました。徳川将軍家の初代家康から、2代秀忠、3代家光に至るまでに整備された基礎がしっかりしていたことと、官僚体制化が強力に推し進められた効果が大きいと言われます。
 まず、第一に、過去の守護大名による不安定な連邦体制を改め、米生産高を基礎とした幕藩体制を構築したこと。第二に、譜代大名を数多く新設し、適所に配分したこと。第三に、大大名に幕政を委ねず、小大名や旗本に委ねたこと。第四に、明確な法規を整備し、武家や公家・寺社・農民に至るまで規制の対象としたこと。第五に、大名達の軍事力を無力化し、無用な武力対立を回避したこと。そして最後に、有能な吏僚を育成して官僚政治を推し進めたこと、などが挙げられます。

 第36回で述べたように、官僚の台頭が、中世時代との決別を促す契機となりました。三河武士団の家僚組織をそのまま大きくしたと言われる、老中・若年寄・奉行・大目付らによる幕閣の組織化、番頭や目付・与力等の官僚の設置・育成に取り組みました。大名の不穏な動きには、改易や転封で応じるなど厳しく対処しました。彼らは700万石を越える徳川家を管理する家僚ではなく、天下を統括する官僚であった点で、鎌倉・室町時代とは大きな違いがあります。
 大名達は地方領主として領内を治める役割のみを委ねられ、天下普請や参勤交代などで多額の費用負担を生じ、固有の軍隊を養い得るほどの力を持てませんでした。各藩内においても、家僚の官僚化が進み、世襲ではあるものの組織の近世化が進捗しました。幕府は、1615年に武家諸法度を発布して大名や旗本に規範を示しました。その草案は秀忠の官僚が作成し、その後家光の官僚により拡充が図られています。
 法規としては、皇室・公家に対して禁中並公家諸法度(1613年)、寺社に対して諸宗寺院法度(1615年頃まで)、旗本に対して旗本諸法度(1632年)、農民に対して慶安御触書(1649年)などを発して、確実に幕藩体制への組み込みを進めました。法度・御触書・御達などの法規・法令を整備したのは官僚達であり、その制定や運用に重要な役割を果たしたわけです。

 大名の経済力を奪う意味では、江戸城や大坂城などの修築、寺社・堤防や街道の整備などの天下普請の負担が大きく、石高に応じた負担が重くのしかかったそうです。加えて、参勤交代の大名行列に要する費用、大名や妻子の江戸在住の費用、江戸屋敷や大坂屋敷など藩邸の維持費用なども大きく、確実に大名家の経済力は削がれたようです。中には、表面上の石高以上の生産能力を上げるべく努力したり、商工業の育成に取り組んだ藩もあったようですが、少数派。大部分は商家からの資金借入など台所は大赤字であったようです。
 大名家においては、戦国時代のような乱世でないために、有能で賢明な大名の出現は望まれなかったそうです。とくに外様大名については、無能で暗愚な大名である方が幕府の受けもよく、家僚たちにとって扱いやすい主君であったためです。家名断絶を恐れて、世継ぎの誕生には熱心でしたが、ときに派閥争いなどを起こして処罰を受けた藩もあったそうです。家光の代までに改易された大名家は121家(関ヶ原・大坂の陣を除く)あり、その激しさが分かります。

 大名家の改易に伴う浪人の増加は社会問題となり、慶安事件(いわゆる由井正雪の乱)、承応事件などの社会事件を生み、加えて旗本奴・町奴といった傾き者の増加を招きました。あるいは鎖国・キリシタン弾圧を進めた結果、島原の乱なども生じています。領主の転封に伴う一揆なども少なからずあったようです。
 幕府の実力としては家光の時代にピークを迎え、その後に家綱・綱吉と下り坂を迎え、家宣・家継の短命政権へと繋がっていきました。将軍の発言力が低下する一方で、官僚の発言力は増し、ますます官僚化が加速していったのです。

01.12.31

補足1
 江戸時代は、300諸侯と呼ばれたりしますが、実体は260〜280諸侯であったようです。ここでいう諸侯とは、1万石以上の領地を与えられた大名のことを指します。それ未満の旗本は5千家近くあり、さらにその下の御家人が1万7千人ほどあったそうです。
¥伯フうち、親藩(尾張・紀伊・水戸の御三家など徳川姓の大名家)、家門(越前・会津・松江など松平姓の大名家)、譜代(関ヶ原以前の家僚出身の大名家、三河以来・浜松以来などのランクがあった)などは、約半分の130〜140あったとされます。中でも幕政に連なる譜代大名で、10万石以上の領地を保ったのは十数家に過ぎず、大部分が5万石未満であったそうです。
 それだけ財力と政治力の切り分けが明確に図られたということなのでしょう。元々は纏まった一族であった、酒井・大久保・本多なども積極的に分家を進めて分断を図るなど、室町時代の管領家支配の再来を防ぐ努力が見られます。

01.12.31

補足2
 鎌倉・室町・江戸の三将軍家を比べると、何となく同じような傾向が見いだせます。北條氏は将軍ではありませんが、実質的に幕政を握っていましたので。
 強いカリスマ性を持ち、幕府の基礎を築いた初代(頼朝・尊氏・家康)、初代に隠れて目立たないが安定期を担った2代(頼家・義詮・秀忠)、権力的にピークを迎えた三代(実朝・義満・家光)、惰性の繁栄時代を経ての中興(北條時頼・義政・吉宗)、末期(北條貞時・義輝・慶喜)という感じです。
 幕閣の構成は、鎌倉よりも室町、室町よりも江戸とレベルアップしています。しかし、依然として世襲制の有力大名(御家人)をベースにしたものであり、本格的な官僚システムは、明治維新後の近代の到来を待たなくては成りませんでした。

01.12.31

補足3
 徳川幕府の成立当初による積極的な転封・減封・改易は、政権安定化を主眼としていました。一つは、大身の外様大名の反攻を封じるため、その周辺や主要拠点を直轄領・譜代領とすること。二つは、関ヶ原の戦いで東軍に投じた豊臣恩顧大名を排除すること。三つは、キリシタン大名の勢力を削ぐこと。四つは、大坂の陣の恩賞に必要な領地をひねり出すこと。などが理由に挙げられています。
 しかし、二代将軍秀忠の兄弟である秀康(越前)、忠輝(越後)、頼宣(紀伊)、頼房(水戸)らに多くの領地を割いています(のちに、家光の弟である忠長(駿河)にも)。これは親藩としての重要な役割を期待されたことも理由ですが、本音は多すぎた家康の跡取り達を処遇しなければ、将軍家の安泰が図れなかったとする見方が有力です。秀康・忠輝は家康存命中に不穏な動きを示していますし、頼宣は家光の時代に強く警戒されました。
 また、幕臣達が積極的に有力大名の取り潰しを策し、これを自派の政争に利用していた面もあります。本多正純、土井利勝らが将軍家の側近として、謀略じみた荒っぽいこともしたようです。本文に書いた慶安事件を契機にして、大名家を取りつぶすことのリスクに気づき、ようやく手控えられるようになったとされています。

03.05.02
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