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日本史の研究No.38
大 坂 夏 の 陣 ま で

 関ヶ原の戦いは、1600年。その三年後1603年に、徳川家康は征夷大将軍に任じられて、幕府を創設します。いかにも徳川家の天下が確定したかのように語られますが、現実には1615年に豊臣家が滅亡するまで、徳川家の優勢に留まりました。

 たしかに関ヶ原の戦いは、家康の目論見以上の成果がありました。数多くの大名が西軍に荷担したことで、87家を改易(取り潰し)・減封(領地削減)して、約600万石を没収しました。これらを東軍の諸大名や、自身の譜代武将に配分したほか、直轄領(天領)を拡大しました。吉川広家の奔走も虚しく、毛利家は120万石から36万石に削減され、豊臣家もわずか65万石の大名に成りました(家僚の多くが西軍に荷担したため)。
 しかし東軍に荷担した福島正則・加藤清正などは、ガチガチの豊臣恩顧大名です。三成との折り合いの悪さから東軍に荷担したものの、徳川家に鞍替えしたわけではありません。他にも豊臣恩顧大名は多く、世代交代が進まないことには、豊臣家の中での徳川家という位置づけは動かし難い状況でした。関ヶ原の戦いも、豊臣政権内での私戦という扱い以上には成りませんでした。
 また世間では、いずれ秀頼が関白・太政大臣に就任することを既定の路線と考えており、家康の征夷大将軍とは別格という見方もありました。秀吉は、藤原氏の猶子となり関白職を譲り受け、かつ太政大臣に任じられました。子・秀頼が継承するのは、当然の権利という見方が強かったと言えます。加えて、朝廷は豊臣家寄りでもありました。

 豊臣家には豊富な金銀が蓄えられ、難攻不落と讃えられた大坂城がありました。当時最大の商業都市・堺を抱え、西国にも睨みを利かせる大坂は、単純に65万石という石高では計れません。家康が死ねば、諸大名が秀頼を支持する可能性も高く、豊臣家を滅ぼさない限り、徳川家の安泰は得られない状況にあったようです。家康が征夷大将軍に任じられるまでに三年間が必要であったことは、それだけの苦労を伴った証左でもあります。
 朝廷としては、征夷大将軍による幕府の再来を望みませんでした。関白・太政大臣が武家であっても、朝廷に一本化されることを熱望していたのは間違いありません。老練な秀吉から、若く気品のある秀頼に期待を掛けるのも当然でしょう。しかし、家康も大金をばらまいて主要貴族を取り込み、征夷大将軍の宣下を受けました。さらに二年後の1605年、将軍位を子・秀忠に譲り、将軍職の世襲を天下に示しました。実質的に家康の幕府はなく、秀忠から幕府が始まったと言えます。

 ところで、家康は清和源氏の血脈であると自称し、将軍宣下を受けています。当時の朝廷では、征夷大将軍は清和源氏の長に与えるものとの固定観念があり(古くは清和源氏以外からも出ていますが)、信長(藤原氏を自称、のちに桓武平氏)にも秀吉にも与えていません。秀吉は足利義昭の猶子となり将軍位継承を望みましたが、義昭に拒絶されて関白の途を選択した経緯があります。
 一方の家康は、元来三河の土豪・松平氏の嫡流でありました。松平氏は氏祖・親氏の出自が不明であり、三河の名門・吉良氏を通じて得川氏の系図を買ったと云われます。ともに足利氏の分派であり、戦国時代には当たり前の系図買いですが、これを根拠に徳川氏に改姓し清和源氏を称したのです。深慮遠謀ともいうべき努力により、果たして征夷大将軍に任じられた訳です。「武家の統領」の看板の下、豊臣家を差し置いて、領地替えや領地配分に心血を注ぎ、譜代大名を各地に配置して外様大名を封じ込める体制も整えました。

 一方で、豊臣家の金銀を浪費させるべく、様々な名目を催しては私財を投じさせました。また、有名な方広寺事件を口実に、秀頼の大坂退去を迫りました。釣鐘の銘文に言い掛かりを付けてまで、人質の拠出・転封を迫った家康に対し、秀頼は浪人を集めての籠城で応えました。1614年10月、都合10万人も集まった大坂城を、家康は20万人で包囲(大坂冬の陣)しましたが、陥落させられませんでした。城攻めの天才であった秀吉が築いた名城であることに加え、家康は城攻めを苦手としたと伝えています。
 家康は形ばかりの講和をし、人質の拠出・転封を撤回する代わりに、浪人解雇と外堀の埋め戻しを条件としました。家康は謀略に余念がなく、偽って内堀まで埋め戻し、豊臣恩顧の大名を恫喝し、豊臣家の有力な家僚を抱き込むなどに成功しました。半年後の1615年4月、再び無理難題を突きつけ、裸城となった大阪城を30万人の大軍で包囲(大坂夏の陣)し、1カ月の攻防戦ののちに陥落・炎上させました。秀頼は自刃し豊臣家は歴史上消滅しました。

 都合15年の歳月を費やして、ようやく徳川家の天下が確定しました。翌1616年2月、家康は太政大臣に任じられ、6月に死去しました。鯛の天麩羅による食中りとも言われますが、健康に人一倍気を遣った家康らしからぬ死因です。歴史にifは許されませんが、家康の死があと数年早まっていたら、徳川政権の存続も怪しかったと思われます。豊臣政権でもない第三勢力が政権を獲得した可能性も高いわけですが、再び戦乱の時代を迎えた可能性もあります。
 ともあれ中世が幕を閉じ、近世の幕開けへと時代は進んでいくのでした。

01.12.31

補足1
 秀吉の子飼い武将は、正妻・北政所を中心とする尾張派(主に武功派)と、側室・淀君を中心とする近江派(主に吏僚派)に分かれていました。秀吉健在中はともかく、死後は激しい派閥争いもしたようです。世に言われるほど石田三成個人に帰す問題ではなく、正妻・側室を核とする派閥対立と見えます。家康に巧く乗ぜられたと言えるでしょう。
 近江派は関ヶ原の戦いでほぼ壊滅し、尾張派の加藤清正と福島正則は最後まで秀頼を支えようとしました。しかし他の尾張派は、ほとんど家康に走っています。二人と共に賤ケ岳7本槍に数えられた脇坂安治は関ヶ原寝返り組、片桐且元も大坂の陣前に寝返っています。家令を務めた浅野長政、豊臣秀長傘下だった藤堂高虎、秀吉の盟友だった細川藤孝など、江戸時代に家名を残した大部分は、見限り組です。前田・丹羽・黒田・蜂須賀など二世組も結果的に離脱しています。

 蛇足ですが、清正と正則は怪死を遂げ、いずれも御家断絶になっています。秀吉の甥・小早川秀秋は、関ヶ原の戦いの功労者ですが、その後に乱心したとして取り潰しにあっています。

01.05.05
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