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日本史の研究No.33
本能寺の変は、必然だった

 織田信長は、何度も危機を迎えましたが、度重なる僥倖で切り抜けていきました。一見危なげな彼の戦略も、実際は綿密な計算に基づいたものであったようです。その戦略の斬新さのために、周囲が理解できなかっただけだと考えます。彼の戦略は、旧体制の打破補足1を参照)に集約されると思います。尾張統一の過程で磨かれた、その感覚が終始守られているようです。

 信長は直接指揮、陣頭指揮を好みました。完全なワンマン経営です。有能な家臣は抜擢しますが、能力を最大限引き出させるために、極度の緊張を強いたり、必要以上の競争を煽ったりもしたようです。謀殺や見殺しを平気でこなす冷徹なところがあったようです。小姓衆による親衛隊を使い、トップダウンによる独裁体制を構築していました。
 推察するに、信長自身に加わっていた重圧も、かなりのものであったでしょう。常に危険と背中合わせで、微妙なバランスの上に膨張する軍団へのコントロールに、限界を感じていたことでしょう。自らを「天魔」と称したと言われ、神仏を恐れぬ傍若無人ぶりは、重圧を跳ね返すために欠かせなかったのでは無いでしょうか。林や佐久間という累代の重臣を追放しました。独立軍と成りつつある柴田、自身を卑下しつつも能力を隠しきらない羽柴、何かと知識をひけらかす明智・・も危うい存在でした。

 少数の兵を率いて本能寺に宿営した信長。意図的に見えるほど、京都には軍事の空白地が生まれました。当時の緊迫した状況を見れば、あまりにも無防備だったと思います。一夜に雪崩れ込んだ光秀勢は、本能寺を押し包んで、信長を自刃に追い込みました。自分を越えられるものなら、いつでも逆らってみろという姿勢を貫き、挑発した行為の数々も計算ずくだったのかも知れません。信長は自ら死を望んでいたのでは、無いでしょうか。
 歴史if。もしも本能寺の変が無かったら。もしも信長が本能寺から離脱していたら。多様なプロットで、数多くの小説が書かれています。いずれも興味深いですが、果たして信長は、その先の歴史に興味や執着を示したでしょうか? 一個の強烈な個性は、激しく燃え尽きて果てたとする方が、良いのかも知れません。

 もしも信長が生き残ったら、彼はより苛烈な政治を推し進めたでしょう。北陸を切り従える柴田、毛利の降伏を独断で受け入れる羽柴、四国から逃げ帰る丹羽、関東を切り取れない滝川・・いずれも信長に粛正される対象となったでしょう。傀儡の帝を据えて朝廷を牛耳り、南都の寺社を焼き払い、より自身の神格化を図ったでしょうか。狂気の主君を頂く王国は、いずれにしても崩壊したと思います。
 開き直った秀吉が上洛して一戦を交えるか。律儀の仮面を振り捨てた家康が北条と連合して濃尾平野で一戦を交えるか、激動の先には江戸時代がやって来ていたような気がします。本能寺の変は歴史の必然であって、遅かれ早かれ訪れる歴史の流れを速める働きしかしなかったと思います。

01.03.24

補足1
  旧体制の打破と一概に言ってみても、旧権威の否定、旧宗教の否定、農本主義の否定、一族郎党制の否定、などに細分化できると思います。

 旧権威の否定。朝廷や幕府から与えられる権威を利用するものの、有り難がりませんでした。副将軍の地位を受けなかった話も有名ですし、右大臣の官位も返上しています。将軍を追放して幕府は解体しましたし、朝廷の乗っ取りを策していたと言われています。
 旧宗教の否定。仏教を、当初から胡散臭い存在と見ていたようです。僧兵を囲い自堕落な生活を続ける仏僧を軽蔑たのは間違いなく、さらに極楽浄土の存在を否定したようです。石仏を石垣に流用したり、東大寺を威嚇したり、延暦寺を焼き討ちしたりと、一貫しています。基督教の必要以上の優遇も、挑発では無かったかと思います。一種の狂信者集団である本願寺勢力は、別の意味で強い敵対心を持っていましたが。
 農本主義の否定。父信秀の影響もあって、貨幣経済を重視していたようです。楽市楽座を奨励したり、南蛮貿易に興味を示したり、堺の自治権剥奪などにも努力を惜しみませんでした。鉄砲鍛冶の囲い込みなども同様です。農民を戦力として使うのでなく、金で兵を養うという発想も同じです。もちろん農業を否定したわけではありませんが、商業の奨励によって相対的に農業依存からの脱却を目指したのでしょう。
 一族郎党制の否定。尾張に弱兵が多かったこともあるでしょうが、太田道灌の編み出した足軽戦術を、より磨き上げました。早々から長槍による槍ぶすま戦術を編み出し、後に鉄砲の集団戦術を編み出しています。安価に大量に動員することで、他の大名家の主力であった、一族郎党制を否定したわけです。一族郎党制に代えて、寄親=寄騎方式、軍団長制を敷いていましたので、全く個人戦術を否定したわけでも無いようです。

01.03.24

補足2
 本能寺の変のようなクーデターが発生した場合、実行者とは別に黒幕があるものです。得てして、最後に果実を得た者が黒幕であります。もちろん百論あるわけですが、朝廷陰謀説・家康教唆説・秀吉共謀説などが支持を得ています。

 朝廷陰謀説は、朝廷の権威を利用しつつ天皇傀儡化を狙った信長を、勤王精神に厚い光秀を使って排除したという説です。朝廷において反信長の声が大きかったことは事実であり、過去に朝廷が権力者を陰謀で排除した事例も多々あります。しかし、後先考えないまま仕組んだにしては、お粗末な印象を受けます。光秀の次を睨んで、光秀を使い捨てにしたのであれば、あり得ない話でもありません。
 家康教唆説は、光秀を使って君臣の関係を裂き、織田家の混乱に期待したという説です。諸説ありますが、光秀と信長の関係が上手くないことを利用し、両者に色々吹き込んで決定的対立を生んだとするものです。光秀は、家康一行の饗応役でしたが解任され、急遽秀吉救援に向かわされました。間に家康があったのなら、現実味がありそうです。しかし、当人が堺で危機に見舞われているところを見ると、劇薬が効きすぎて時期を読み誤ったということなのでしょうか。秀吉に油揚げをさらわれたことにも成りましたし・・。
 秀吉共謀説は、一番に現実味があります。信長を誘き出し、情報を操作し、光秀を誘導するのは、秀吉の手腕があれば可能でしょう。備中高松城が落城すれば、秀吉の首が危なくなるのは確実でした。武田氏が滅び、上杉氏や長宗我部氏、北條氏の降伏・滅亡が目前に来た以上、最後のチャンスであったと思われます。共謀であれば、光秀が安土に繰り出した理由も説明が付きます。しかし、光秀と秀吉は常に競争相手と目されていて、不仲だったと伝わっています。秀吉が人を介して教唆した方が現実的かも知れません。何よりも、果実を得たのは秀吉本人ですから。

01.05.05
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