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日本史の研究No.32
織田信長 の 登場

 日本史の中でも一際注目されている人物が、織田信長です。江戸時代の系図集では、織田氏は伊勢平氏の平重盛の末裔としているようです。信長が源平交代説に従って平氏を称したのが、その由来であるようです。当初は「藤原信長」と署名し、藤原氏を称していましたので、信長が本気で主張していたわけでも、無いでしょう。

 信長の父である織田信秀は、管領家・斯波氏である尾張守護家の陪臣(家臣の家臣)でした。織田一門は尾張に根を拡げ、敏信一派と信定一派が共に尾張守護代を称して、争いを繰り広げていました。斯波氏は、越前国を朝倉氏に横領され、尾張国でも名ばかりの存在でした。織田一族の争いを調停できず、成り行きを見守るばかりでした。
 信秀は信定の子と言われ、兄信康を補佐する立場にあったようです。尾張の兵を率いて、三河や美濃へ侵入するなどの功績を上げたものの、一族のバランスを調整するのがやっとだったようです。彼は比類ない戦上手であり、東海に名を轟かせました。斉藤道三の娘と信長を縁組みさせて濃尾同盟を実現したのも、頷けます。また、商業育成にも力を注いだようで、海運の保護・街道の整備・関所の廃止なども手がけたようです。潤沢な資金を背景に伊勢神宮や京御所への多額の寄付、茶器等の買い漁りもしたそうです。
 結局のところ、信秀の限界は、一族の序列を突き破れなかった一点にあります。彼が本気で織田一族の一本化に乗り出していたなら、それは可能であったでしょう。朝倉氏と同様に、尾張一国を横領することも難しくなかったと思われます。その歯痒さを、信長が痛感していたのではないかと思われます。彼の革命的な思想は、信秀の生き方の裏返しであったのでしょう。

 織田氏の発祥は、越前国敦賀郡の織田神社の神主家であるというのが、最近の定説です。守護・斯波氏の尾張下向に従い、常昌という人物が尾張に移住したようです。常昌の子である常勝は尾張守護代を称し、その五代孫の敏定が犬山城を拠点として、尾張の支配権を確立したと伝わっています。この敏定の子が敏信と信定であり、尾張を二分した争いを繰り広げますが、単純に尾張を分割相続して、覇権を争う構図でした。
 信定の家督は信康に譲られますが、その弟である信光・信次・信秀がそれぞれ分家として居城を持ち、事実上の分割相続をしたようです。譜代の家臣団を持たない織田氏にとって、一族しか信頼できなかったのか、一族で城を持ち合ったようです。その結果、一族としての纏まりを維持できませんでした。信秀の場合も、庶子・信広に居城を与えていた記録(三河安城城主)がありますし、嫡子・信長、信行(学説では、信勝が正しいようです)にもそれぞれ居城を与えています。家風というのか、悪しき慣例です。

 信秀の死後、一族内での覇権争いが活発化し、信長は、上尾張守護代家の信安(岩倉城主)や、下尾張守護代家の信友(信康の子、清洲城主)と争わなくては成りませんでした。信秀の居城であった末森城を信行が相続したため、信長は敵地に近い那古屋城で奮闘する形になりました。信秀の家臣団も信行に従属する形になり、信長は少数の家臣で戦う不利がありました。
 信長は、叔父信光と語らって、信友の殺害と清洲城の奪取に成功します。さらに信光は、その後に不審な死を遂げています。信行との争いも活発化し、最後は清洲城で謀殺したと伝わっています。信行の謀反というよりも、一族争いの結果として信長の正当性が確立されただけに過ぎないようです。柴田勝家の寝返りが、大きいと言われています。
 信秀の死から8年後に、上尾張守護家の信賢(信賢の子)の追放に成功し、信長は尾張一国を掌握しました。しかし、織田一族を統一したに過ぎず、尾張国内には数多くの反信長勢力が残存していたようです。信長には、有力な家来衆が存在せず、平手氏・佐久間氏など数えるほどであったようです。翌1560年の桶狭間の戦いで、郎党2,500人という少なさが、それを証明しています。

 結果的に、人材を在野に求めるしかなく、それが身分制度に拘らない人材の大抜擢を生んだようです。当然ながら、単身での登用になるため、兵士も直接採用という形になり、一種の職業軍人集団を育成することに成ったようです。流れ者や傭兵も採用し、抜擢した家臣を長に据えました。兵農分離が図らずも進展したことに成ります。
 信長にとって、一族との覇権争いは大変な事業だったでしょうが、豊富な実戦経験を積み旧弊を一掃したことで、他国に類を見ない革命的な軍団を手に入れることに成功したのだと思います。家縁や地縁に縛られない家臣団の形成も、その後の活躍に大きな意味を持つようになったと考えます。

01.03.20

補足1
 信友殺害の補足です。この頃の織田家の動向は、公式資料では読みとれません。後年、美化がされている面もあります。通説では、信友は尾張守護・斯波義統を傀儡化していました。弱体な信長を誘き寄せて暗殺するつもりでしたが、これが義統から信長に漏れ、義統を殺してしまったとされます。信長は信光を唆して信友を攻めさせましたが、信友が自害すると自ら清洲城を奪取し、代わりに那古屋城を与えたとされます。信光はそれに不満を持っていたものの、数か月後に家臣に惨殺されてしまいます。とても不自然です。
 なぜ義統は、たかが信長のために謀略を知らせてやったのか。なぜ信長は、傀儡の義統を殺す必要があったのか。どうやって信長は、信光を唆し、強引に清洲城を奪えたのか。そして、信光の暗殺を仕組んだのは誰か。結果的に信長は有力な一族を二人抹殺して、斯波義銀(義統の子)を名目の守護に据えて、大義名分を掴んでいます。とても不思議な事件であります。

01.03.24

補足2
 信長は、伊勢国攻略に際して、三男信孝を神戸氏へ、次男信雄を北畠氏へ、それぞれ養子に押し込んでいます。毛利氏の両川のような養子戦略とは違い、政略結婚による勢力拡大よりも、家督継承者を減らす目的の方が強かったように見受けられます。のちに羽柴秀吉に請われて、四男も養子に出しています(のちの豊臣秀勝)。同族による領地分割の危険を回避したかったのでしょうか。
 また信長は、実子に変な幼名を付けたことでも知られています。奇妙丸(信忠)・茶筅(信雄)、三七(信孝)、於次(秀勝)というネーミングです。信長の幼名は、吉法師。変わった名前ではあります。

01.04.29
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