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政治の研究No.121
チャイルド・スタンダード

 近頃また少年犯罪が、社会問題としてクローズアップされています。日頃は真面目で大人しい少年達が、ある種の衝動で凶行に及んだり、大人の目が及ばないところで大人顔負けの悪行を尽くしたり、怖い時代になったものです。かつて手に負えないほどの暴力を振るった少年達に悩まされましたが、彼らとは違った更正手段や刑罰の適用を考えていく必要があるのでしょうか。

 大多数の法学者は、少年法の改正による少年犯罪の罰則強化は良くない、と主張しています。これはこれで正しい考え方なのですが、罪を犯す少年達が少年法の甘さを意識している点は配慮すべきです。犯罪を犯した少年を救う前に、被害者本人やその家族を救うことが先決だからです。少年犯罪についても、犯罪予防・抑止の意味を持って厳罰を用意するべきです。その上で運用において厳罰の適用を必要最小限にすれば良いことです。
 しかし、法律をどうこうするだけで少年犯罪が減少するとは思えません。確信犯的に犯行を重ねる少年達には有効でも、衝動的に犯罪を引き起こす少年達には無力だからです。少年達が犯罪に至るまでのプロセスは様々で、これを一括りで議論することは無意味でしょう。特定の要因を非難して、全ての責任を押し付けることも無価値でしょう。それでも一つひとつ問題を解消していくことは必要です。

 我々は、自己を発見し、目覚め、そして育て、確立していきます。しかし何かの不具合で目覚めが遅れたり、育ちが悪かったり、確立をできなかったり、します。他人からその事実が見えないために、普通の人間であるとして接します。少しおかしな気性や行動があっても、多くは見過ごされます。しかし、常に危ないシグナルは発されていると見るべきです。
 義務教育の過程で、育ちの前段階まで終えることになっています。人間には個体差がありますから、育ちは色々でしょうが、一応は教育的見地でのスタンダードに達することを義務づけています。しかし、達していない者を留める権限は義務教育になく、彼らを未成熟なまま高校や社会へ送り出しています。また無意味な競争心を煽り、知識の詰め込みを行う結果、達していない者は取り残され歪みます。あるいは達したフリをして、規格品に紛れ込んでしまうのです。

 学校では何のために担任制を敷いているのでしょうか? 生徒達を拘束するためでしょうか、競争させるためでしょうか、監視するためでしょうか、評価するためでしょうか? いずれも違うと思います。生徒1人ひとりを管理し、その能力や理解に応じた指導を行い、できる限り個体差のないスタンダードなレベルまで引き上げることにあるはずです。それ故に、担任1人あたりの生徒数を少数に保っているはずです。
 担任は、綺麗に揃った規格品を多数生み出して、規格外品を排出することが役目でありません。無用にランク整理をして、個々の生徒の進路とやらを決めつけることでもありません。教え導くこと、相談相手となって不安や心配事を除くこと、道徳心を育てて社会の一員となるスキルを身につけさせること。そういうことが欠かせないでしょう。

 いつしか学校はスタンダードな規格品を生み出す工場に成っています。規格外品をどう生み出さないかを考えるよりも先に、どう規格外品を処分するかに関心を持っていると思います。他人よりも自由な発想をする少年は矯正して他人と揃えたり、行動の揃わない少年に不味いレッテルを貼り付けて責任を逃れたり、愚かな学校やその教師が溢れています。
 高校では矯正できないから、中学で規格品を生み出すよう望む。中学で規格品を生み出すのが大変だから、小学から規格品を作るよう求める。小学で規格品を生み出すのは労力が大きいので、入学前からの規格化を・・・と求めて、いつしか子供規格(チャイルド・スタンダード)ができてしまっているようです。

 近頃の少年犯罪は、子供規格をお仕着せられた少年達の歪み・・・悲鳴、無言の抵抗、沈黙の拒否。自己を発見し、自覚し、育てることを自分でできなくなった少年達が・・・ついに育つことができなくなって暴走する。そんな気がしているのです。

00.06.17
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