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日本史の研究No.40
キリスト教との闘い

#Nに来日した宣教師フランシスコ・ザビエルは、わずか1年半の滞在期間にキリスト教の布教に務め、多くの信者を獲得しました。1534年に興ったイエズス会の主要メンバーの一人であり、当時ヨーロッパ大陸で劣勢となったカトリック教勢力を回復するため、東洋の果て日本を目指してやって来たのでした。
 彼の真の目的は、日本のキリスト教国化でありました。最善の策は日本国主をカトリックに改宗させること、次善の策はキリシタン領主による日本国制圧、最後の策はスペイン軍による日本占領であったことでしょう。しかし、予想以上に文化国である日本をスペイン軍が制圧する望みは薄く、当時九州に覇を唱えていた大内氏・大友氏などの説得に力を入れたようです。

 キリスト教は、主に農民の支持を集め、次いで土豪や地方領主に信者を増やしました。これは当時の仏教が高尚かつ難解であったために、仏教を受け入れなかった層であります。これに対するキリスト教は、人間は平等・神への直向きな祈りを教義としたために、受け入れやすかったことが理由であると思われます。時は戦乱のただ中にあり、精神的な救いを求めた人々に強く訴えかけたことは間違いありません。
 一方で、いわゆる戦国大名達は、キリスト教の布教を認めたものの、自ら帰依するのは少数派でした。キリスト教の教義は、力による支配を目指す戦国大名にとって危険な思想であり、スペインやポルトガルとの貿易を拡大するための方便として、キリスト教に理解を示すふりを続けたに過ぎません。宣教師達が聖書の教えを遍く説いたとは思われず、都合良く論点を絞った上で、農民には農民向けの、地方領主には地方領主向けの、戦国大名には戦国大名向けの、説話を行っていたと思われます。

 分かりやすく「救いの道」を説くキリスト教は、当時の為政者にとって一向(浄土真)宗と同程度に危険な宗教でした。ともに在地勢力を揺さぶり、宗教による民衆支配を目指しているだけに、一向宗に脅かされた畿内の諸大名は、同種の危険を肌で感じていたようです。仏教勢力に対抗する勢力としてキリスト教を優遇した信長、貿易促進の裏で弾圧を目論んだ秀吉、ついに鎖国を決意した家康、政策に違いはあっても警戒感を強く抱いた姿勢は変わりませんでした。
 それでも地道な布教活動が実を結び、九州・中国地方に多くのキリシタン大名が登場してきます。一向宗から改宗した大名も登場してきます。優れた西洋文化に触れることにより、その宗教観をも受け入れたのでしょうか。長崎などに教会が相次いで建設され、民衆にも数多くの信徒が現れました。なかでも大村氏は、長崎をイエズス会に寄進し、大友氏・有馬氏らと共に、ローマ教皇に少年使節を派遣するなど積極的な活動をしました。

 秀吉は、1587年にバテレン追放令を発しましたが、実効を上げませんでした。しかし、スペイン・ポルトガルとの貿易を継続する限り、キリスト教の流入を押さえることは叶いませんでした。秀吉の晩年である1596年には、長崎のキリスト教徒の公開処刑が行われています(26聖人の殉教)。目に見えての弾圧は、キリスト教徒を地下へと潜らせ、隠れキリシタンを生むようになります。為政者による抑圧は、より強い結束を生むことになり、やがて島原の乱への伏線になります。
 秀吉の死後、図らずも欧州貿易と宗教の分離が可能となりました。これは、オランダ船・リーフデ号が豊後国(大分県)に漂着したことにより、いわゆる紅毛人とのコンタクトです。キリスト教による宗教支配を目論まない彼らの出現により、新たな貿易相手が得られたわけです。最終的にオランダとの貿易が選択肢に残り、鎖国への条件が整います。

 島原の乱が生じるのは、鎖国の完成間近となる1637年のことです。これを境にして、「キリスト教との闘い」は表面上終息に向かうことになります。

02.05.12

補足1
 ザビエルの布教を契機として、キリシタンは徐々に増加していきました。イエズス会の把握数字によれば、1565年までに1万人、1570年に2万人、1579年に10万人、1587年に20万人、1598年に30万人に達したそうです(過大に報告されている可能性はあります)。その後は幾分減少に転じていますが、宣教師の追放強化、キリシタン大名の消滅、徳川支配による政治的安定などの影響と思われます。

02.05.12
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