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日本史の研究No.31
鉄 砲 の 伝 来

 明治維新に及んで、本格的に西洋人と交流を持つまで、日本の庶民の大多数にとっての全世界は、日本・中国・インドであったろうと思われます。鉄砲の伝来、キリスト教布教、黒船など庶民が西洋人の存在を意識する機会もあったでしょうが、西洋人と接する機会を持ち得た庶民は限定的でしたし、彼等が西洋人という人種を認識できたとは考えにくいです。

 そこで今回は「鉄砲の伝来」がテーマです。学校では、1543年に種子島へ漂着したポルトガル人が伝えた、という風に習いました。しかし1543年よりも早い時期に、中国や琉球経由で鉄砲が伝来していたことが分かっています。ただし鉄砲が珍宝として伝来しただけで、これを実射したかどうかは定かでありません。
 また、第二次倭寇(1523-1601)が鉄砲を使っていたことも、確かなようです。第二次の大部分は中国人・朝鮮人だとされていますが、九州系の海賊も混じっていました。彼等が知識として鉄砲を知っていたのは、間違いありません。倭寇の話などは事実関係が不確かであるため、伝来の公式記録に認定されない、ということなのでしょう。
 さらに、種子島に漂着の事実もはっきりしません。当時のポルトガル人は、知識として日本(ジパング)の存在を知っていました。彼等が航路を誤って漂着したものか、漂着を装って偵察に来たのか、は今では分かりません。しかし、これより先に日本にやってきたポルトガル人があったことは、間違いないようです。南方や中国・日本と交易にあった琉球王国には、早々とポルトガル人が来着していました。琉球で仕入れた知識を生かして、ポルトガル人達は意図的に訪れたと見るのが相当でしょう。

 それでも鉄砲は、「種子島」と呼ばれて日本中に伝搬することに成りました。それは伝来したからでなく、技術の伝授を最初に受けることができたためです。当時、島津氏に臣従していた領主の種子島時堯は、ポルトガル人の持っていた鉄砲2挺を貰い受け、家臣の篠川某に命じて火薬の生成方法を修得させました。その1挺が紀州根来に渡り、畿内での鉄砲量産化への道筋を付けたとされています。
 当時は、戦国時代のまっただ中です。舶来の新兵器に関心を示す大名がありました。島津氏は残る1挺を研究させて、国産鉄砲を作らせました。畿内の1挺も研究されて、和泉の堺や近江の国友で量産化が試みられました。器用な日本人は、刀鍛冶などを動員して研究を重ね、あっという間に量産化を実現したばかりでなく、改良を進めたようです。
 各地の戦国大名との結びつきを強めていた堺の商人達は、それぞれの大名家へ売り込みに行きましたが、大名の示した関心はマチマチだったようです。専ら轟音を出す威嚇武器と認識されていたこともあります。しかし、織田信長の目に留まったことが、その後の戦国史を大幅に短縮したことは間違いありません。

 豊臣時代、日本は世界で最大の鉄砲保有国であったそうです。しかも着弾距離の拡大、装填時間の短縮、命中精度の向上、いずれも高水準であったと伝えられています。しかし平和な徳川時代が到来し、鎖国で海外との交流が断たれたことなどで、日本での鉄砲技術の改良はストップしました。明治維新時に、依然として火縄銃主流であったことが、それを証明しています。鉄砲よりも数年遅れで輸入された大砲は、それ以上に技術革新が進みませんでした。
 需要のないところに技術革新はない、のは昔からですね。

00.09.17
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