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日本史の研究No.25
建 武 の 新 政

 御家人達の不満を上手に吸収して、一気に全権を握り込んだ後醍醐天皇は、1334年に元号を建武に改めて新政を始めました。「建武」とは、中国の前漢王朝を簒奪した王莽を誅滅し後漢王朝を建てた光武帝の定めた元号で、その故事に倣ったものです。また天皇の諡号は死後に贈られるものですが、自ら醍醐天皇(平安初期の天皇で、延喜の治と呼ばれる天皇親政を行った)の後として「後醍醐」を称していました。これからでも、後醍醐の政治は新政でなく、旧政復活を目指していたことが分かります。
 まず親しい者には厚く、疎しい者には薄く恩賞が与えられました。その不公正さは御家人達の期待を裏切るものでした。さらに横領された貴族や寺社の荘園の回復に努め、問答無用に旧に復させようとしました。天皇の愛后阿野廉子が政治に介入したことも人気を落とした原因です。さらに大内裏の新設を宣言して、重い租税と賦役を課しました。一層の不満が蓄積されたのは、間違いがありません。

 宮方で戦った武士たちの不満は著しいものでした。楠木・赤松・河野・菊池らは軽んじられ、清和源氏である足利と新田のみ重用されました。後醍醐はとかく両者を比較して競わせようとし、これが足利の癇にも障ったようです。また後醍醐の皇子・護良(大塔宮)は随一の武闘派でしたが、多くの武士が足利尊氏(後醍醐の名・尊治より偏諱を受けて改名)に従う危険を察知し、何度も後醍醐に苦言を呈しました。しかし、護良の方が排斥されてしまいます(廉子が護良を嫌い、実子・宗良を大事にする足利兄弟に好意を持っていたためと言われます)。
 翌1335年、北條時行を担ぐ勢力が鎌倉を攻め落としました(中先代の乱)。新政に裏切られた関東武士が多数協力したため、大軍です。当時鎌倉には尊氏の弟直義と皇子・宗良が在ったので、尊氏は征東軍の指揮権を要求し、同時に征夷大将軍の官位を求めました。しかし後醍醐は征夷大将軍の名を与えず、征東軍の指揮権も追認に成りました。尊氏は反乱を鎮圧して鎌倉に居座り、勝手な恩賞配分を始め、多数の関東武士の吸収に務めたようです。
 意を決した後醍醐は、新田義貞を総大将にして尊氏討伐軍を起こしましたが、義貞は敗北し、逆に尊氏が京へ攻め上ってきました。幸いにも、奥州から大軍を率いてきた北畠顕家の活躍で尊氏軍は撃破され、尊氏は九州へ逃れました。九州で討伐軍を撃破した尊氏は、再び大軍を編成して京に攻め上りました。西国にも新政に不満を持つ武士が多かったということです。楠木正成は京を空けて再起を勧めたものの受け入れられず、少数の兵で摂津国湊川に出陣し、討ち死にしました(義貞は兵庫で敗れて敗走)。正成は無能な義貞を捨てて、人望ある尊氏と講和すべきと説いたとも言われています。

 結局のところ、御家人達の不平不満を全て吸収した尊氏が勝ち、期待に応えるどころか大いに裏切った後醍醐は敗れました。後醍醐は一旦降伏して退位を宣言しながら吉野に逃れて南朝を興し、尊氏は持明院統の光明天皇(光厳上皇の弟)を据えて北朝を興しました。
 後醍醐は王莽の短命政権を打ち倒した光武帝に倣うつもりが、自ら2年余りの短命政権に終わってしまいました。時代区分では室町時代に突入しますが、微妙な政治バランスに乗った南北朝時代が当面続きます。

00.01.02

補足1
 建武の新政では、それなりの政策は出されたと思います。しかし、いずれも実績を出す間もなく、政権が潰れてしまいました。このため本文中では新政の中身について検証していません。どんな立派な政策が出されたかではなく、どんな立派な治績を残したかで、歴史は評価されなくてはダメだと思うからです。
 実際の所、法皇や上皇・摂政・関白の一切を廃止し、大臣・将軍達も直轄したようで、勅命書も自ら筆を取るほどだったということです。これでは、まともな政治が可能であったと思えず、必要な情報も十分に得られていなかったと思われます。
 新政を実現するまでは、側近にいわゆる「三房(北畠親房・吉田定房・万里小路宣房)」を従えていましたが、新政後は彼らに代わる有能な側近に恵まれなかったようです。数多い皇子たちを地方に派遣して、有能な官僚や武将を伴わせた結果、中央の空洞化も進んだと見えます。うるさい功臣たちを遠ざけて、すでに「有能な忠臣の言葉に耳を貸さなかった」とも言えそうですが。

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