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雑記帳No.029
ボ ク の 書 生 論

 書生論という言葉があります。大辞林によれば「現実をわきまえない、理想にはしった議論」と説明されています(嗚呼、懐かしのフレーズ)。「なんだぁ、このHPでやってることじゃないか」とのご指摘ごもっともですね。実務を知らない人間、他人の苦労を省みない人間、理論先行・理論重視で育ってきた人間が陥りがちな議論、これが書生論といってバカにされるわけです。中には正論をこそ青臭い書生論とバカにされることもあります。

 ところがポン太は、書生論に有用性を認めています。書生は、先生の傍らで先生の仕事を見て過ごします。先生に及ばぬところは多いのですが、先生よりも客観的に先生の作品を捉えることができます。したがって、先生の気付かないことを書生は発見することが多く、先生が書生の意見を聞かないのもどうかと思います。書生は傍観者であると共に、最初の批評家でもあります。先生が書生の率直な意見を聞くことができれば、その場で手直しをして、より完成度の高い作品を世の中に送り出すことができます。つまり、先生が素直に書生の意見を聞く度量があるかどうかが、作品が独善的になるか、普遍的になるかの境目でもあります。
 しかし、書生が度々口を挟むと先生の思考の妨げになりますので迷惑を掛けますし、書生がバカな議論を仕掛けると先生の時間を浪費してしまいます。そこで先生は時間に余裕があったり、思考が行き詰まったりした場合に積極的に書生に声を掛け、言葉のキャッチボールをしてみるのが、あるべき姿ではないかと思います。書生と先生に思考のコンセンサスが図られれば、より効率的な思考の整理ができます。書生は学ぶ機会が増えて、より高度な議論ができるようになります。
 では、先生が堅物であった場合は、どうしましょう。先生の目に付くところに貼り紙をしてみたり、トイレの壁に落書きをしてみたり、さりげなく先生にアピールしてみることです。先生を唸らせるほどのモノが書ければ、書生としての価値が高まることでしょう。さりげない会話に、訴えたい内容を絡ませるのも一つの方法かも知れません。

 ああ、話が見えなくなりましたか? 今どき、書生さんは見掛けなくなりましたね。漫画家のアシスタントさんぐらいでしょうか。私ことポン太がやろうとしていることは、日本社会の書生たらんとすることです。政治家さんが、企業経営者さんが、歴史研究家さんが、ふとインターネット上でデータ収集をされる折りに、さりげなく目に触れるような便所の落書きを目指しているわけです。このHPにはピントはずれな議論、前提のおかしな議論が多いことは承知しています。愚かな素人考えではありますが、まあ落書きですから、お読みいただいた上で一つでもヒントを掴んでいただければ、と考えている次第です。
 ポン太は専門家ではありませんから処方箋は書けません。しかしヒントを掴んで日本社会が少しでも治癒する方向へ進んでくれるなら、結果としては良いのではありませんか。「この議論はそもそも書生論で、議論にもならん!!」などと鼻先であしらわないで、一つでも多くのヒントを掴んで帰っていただければと思います。病気を治すためには騙されることも必要ですよ、たとえそれがフラシーボ(偽薬)であっても・・・

98.07.31
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