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日本史の研究No.41
鎖 国 政 治 の 導 入

 徳川幕府による鎖国政治の導入は、キリスト教国化を阻止するためであったと言われています。しかし、これには疑問があります。

 家康は、リーフデ号の乗員を保護しました。イギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)やオランダ人ヤン・ヨーステンを手元に置き、多くの情報を引き出したことは有名です。イエズス会系の宣教師の意図、スペイン国王の野望、東南アジア諸国の動向等の知識も仕入れています。その結果、イギリス人やオランダ人といった紅毛人との貿易であれば、国内混乱のリスクは少ないとの結論を得ていたようです。
 また興味深いことに、1588年にスペイン無敵艦隊がイギリス海軍に大敗し、事実上消滅したとの情報も、オランダ商船経由で家康に伝わっていました。スペインに艦隊再建能力が無いことも含めてです。不幸なことに、日本へ派遣された宣教師達には、その事実が伝わっていませんでした。彼らは宗主国スペインの勢威拡大のために、日本での武力革命の夢を見続けましたが、すでに果たせぬ夢であったのでした。

 それにも関わらず、秀忠や家光が鎖国制度を推進していったのは、何故なのでしょうか?
 まず、徳川幕府が、日本人の海外進出を快く思っていなかったのでしょう。信長や秀吉は、貿易による国益拡大を望みました。家康は、貿易の魅力は知りながらも、農業による国富充実を望みました。重商主義よりも重農(農本)主義であったと言うべきでしょうか。東南アジアや西欧諸国との貿易で巨万の富を築く豪商の出現や、海外での見聞によって開明的な思想の流入を、恐れたフシが見られます。
 また、島津氏や毛利氏、伊達氏などが貿易で資金力を貯えることも警戒したでしょう。新兵器などの密輸の懸念があり、貿易全体を監視するよりも、貿易を一律禁止する方が簡単ということです。伊達政宗は、家僚の支倉をスペイン国王に派遣しましたし、婿の松平忠輝に絡んだ御家騒動の勃発懸念がありました。毛利氏の前身であった大内氏は、対中国貿易に熱心で、キリスト教布教にも一役買いました。島津氏は、その後に琉球王国を傘下に入れて、中国貿易に手を出しています。
 さらに、海外情報の独占を図る狙いもあったでしょう。幕府が独占している西欧情勢が、誰にでも手軽に入手できることは驚異です。南蛮人や紅毛人には、幕府関係者とのみ接触させ、情報を諸大名や庶民に情報を流出させないことを狙ったとも思われます。同時に、外国人に情報が持ち出されることも懸念材料であったはずです。

 ただし、「鎖国」という表現は、事実を正しく表していません。徳川幕府は、スペインの来航のみを禁止する腹づもりだったためです。幕府が貿易と情報の独占を意図し、イギリスやオランダに門戸を開放し、ポルトガルを含む他国にもその用意がありました。当初はイギリスが積極的でしたが、国内数カ所に商館建設を要望したものの将軍秀忠に許可されず、オランダ領バタビア(インドネシア)の隆盛などもあって、自然と疎遠になりました。オランダは、他国船に数々の海賊行為を働き、日本来航を妨害したそうです。
 中国の明帝国は、朝貢貿易を除いて鎖国政策を採っており、秀吉の朝鮮の役もあって国交断絶の状態でした(清帝国になってからは、復交)。李氏朝鮮は、朝鮮通信使の尽力で復交しましたが、積極的な貿易には及びませんでした。スペイン領フィリピンとも絶交状態にありました。シャム王国は、山田長政の謀殺と前後して内乱状態にありました。結果的に残ったのが、オランダだけだったということに成ります。

 徳川家光の将軍就任(1623年)以降の動きを見ると、以下のようになります。イギリスが平戸商館を閉鎖して自主退去(1623年)、スペイン船の来航禁止(1624年)、漢訳洋書の禁輸(1630年)、朱印船に奉書交付制導入(1631年)、奉書船以外の渡航禁止(1633年)、在外5年以上の日本人の帰国禁止(1633年)、長崎出島の建設開始(1634年)、外国船来航・貿易を長崎に限定(1635年)、出島完成しポルトガル商館を移設(1636年)、ポルトガル船の来航禁止(1639年)、オランダ商館を出島に移設(1641年)、オランダ商館長による風説書の提出開始(1644年)。
 なお、ポルトガルは1580年にスペインに併合され、同君連合王国という形式上の国家でした。幕府は長い間それに気づかず、1639年になって来航禁止を通告しました。しかし、翌1640年にポルトガルは独立を回復しています。日本との貿易を継続する余力は、すでに無かったと思われます。

 島原の乱は、1637〜1638年に起きています。島原の乱が鎖国の引き金と成ったのではなく、鎖国が乱の引き金となったことが分かります。もっとも、乱の原因は、キリシタン取締令(1633年)との関係が深いですが、農民に対する領主の過酷な搾取にあったと言われます。これ以降は、キリシタンの驚異が表面上なくなっています。鎖国がキリスト教国化の阻止にあったのなら、ほぼ目的は達成されたはずです。
 しかし、その後の200年以上も、鎖国は継続されることに成りました。

03.06.21

補足1
 鎖国開始当時のオランダは、イギリス・スペインを抑えて、世界最強の海運国でありました。バタビアを軸としたオランダ東インド会社が活躍し、最大の繁栄をもたらしました。その後は、イギリスに逆転され、多くの植民地や権益を喪失しました。幕府に提出される風説書には、その事実が伏せられていたために、幕府はオランダの二流国転落を知ることができませんでした。もしも、イギリスやポルトガルとの貿易を継続していれば、オランダの実勢や、世界の動向を掴むことも可能であったかと思いますが・・・不幸にも、自ら機会を閉ざしてしまいました。

03.06.21
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