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日本史の研究No.30
下剋上 の 時代

 いわゆる戦国時代は、下剋上の時代だと言われます。無能力な上位者を逐って、有能力な下位者が実権を握る、実力主義の時代という意味ですね。戦国の三大梟雄と名高いのは、伊豆の北条早雲、安芸の毛利元就、美濃の斎藤道三でしょうか。程度の差こそあれ、いずれも上位者を排除して自ら大名の地位を手に入れました。
 しかし、関東公方を古河に追い払った関東管領の上杉氏、守護の京極氏に追放されても逆転した山陰の尼子氏、守護の斯波氏を追い払った朝倉氏・織田氏、細川管領家を乗っ取った三好氏、主家を冒した長尾氏など有力な戦国大名でも、大なり小なりの下剋上が展開されました。加えて、国人や農民が領主に謀反する国一揆・土一揆、一向宗徒が領主を滅ぼす一向一揆など、異種階級での下剋上も盛んになった時代です。

 戦国大名と総称しても、その規模はかなりの開きがあります。数カ国を領した者だけでも30家以上あり、100年近い時代でも激しい栄枯盛衰がありました。戦国大名の性向を二つに分類すると、上洛型と地方割拠型とに分けられます。前者は京に上って将軍や天皇の後ろ盾となり天下に号令すること、後者は周囲の勢力を切り取って地方に根を張ること、です。あるいは保守型と革新型という分類もあるかも知れませんが、多くは保守型に属したので、意味がないでしょう。
 たしかに下位者が上位者を凌ぐことは、秩序世界では許されない行為です。しかし喰うか喰われるかの混沌世界では、やむを得ずという選択でもあります。無能な上位者を担いでいたのでは、近隣大名に併呑されてしまうのですから。陶晴賢、毛利元就、斎藤道三などは、ある意味で仕方なく下剋上を起こしたようにも見えます。

 戦国時代の初期段階では、応仁の乱と同様に、小競り合いばかりが続きました。特に顕著であったのが、関東管領の山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立に見られますが、扇谷側の名将であった太田道灌の考案による足軽戦術が、大会戦への先鞭を付けました。北条氏康が兵力集中戦術を高度化し、武田信玄が騎馬集中戦術を編みだし、織田信長が鉄砲集中戦術を発案するに及んで、戦国時代も大量殺戮の時代に変わりました。
 大量殺戮は国力の疲弊を生み出しましたが、戦争の短期化を実現して・・再び中央集権への道を拓いたとも言えます。国家を挙げての戦乱は、身分の垣根を低くして時代を活気づけもしたようです。下剋上が旧弊を一掃し、新しい時代を生み出す土壌を育んだことも見逃せません。

 戦国の混乱は、風雲児・信長によって統一の目処が着けられました。強力なリーダーシップにより、弱兵と呼ばれた東海の兵力で中央に進出した信長は、数々の強豪を打ち破りました。貴族勢力や宗教勢力など在来権力を否定し、積極的に南蛮文化という新風を取り込んだものの、自らが本能寺にて下剋上に遭い、統一半ばで果てました。安土桃山(織豊)時代という黄金時代へと繋げつつ、歴史は混沌から秩序へと切り替わって行きます。
 戦国時代は、日本史上でもっともエネルギーの溢れた時代だと思います。重苦しい中世のクビキを振り払い、近世への脱皮を遂げるために、避けることのできなかった歴史上の必然であったかも知れません。もしも今川義元が上洛に成功して足利幕府の延命を実現したとしても、いずれ地方の誰かが上洛して取って代わり、やはり歴史は同じ結論へと流れたのではないかと思われます。ただし織豊時代・江戸時代とは形の変わった歴史だと思いますが、必然から導かれる歴史は、そう大きく軌道を狂わせなかっただろうと考えます。

00.02.12
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