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日本史の研究No.21
得宗体制 と 御成敗式目

 北條氏は、平将門を討った平貞盛の次子維将を祖とすると伝わり(諸家系譜の北條氏系図を参照)、派生氏族は多いです。義時とその弟時房の係累が多く、彼らは鎌倉の地名をそれぞれ名乗って分家を成しました。結局のところ建武以降に根絶やしにされますが、いわゆる北條執権時代には絶大な権力を揮いつつ、一族としての結束は一部の例外を除いて乱れませんでした。それは、得宗制度という強固な氏長者制度が確立されていったことと関係があります。
 北条泰時が、義時の死後に執権を継いだことには、大きな意義があります。つまり、執権が義時一代の特別職(義時は、頼朝の定めた政所別当と侍所別当を兼務して執権を称していた)でなくなったこと、かつ執権は北條家の世襲職となったことです。北條家は、時政・政子・義時のトロイカ体制から、政子・義時・時房のトロイカ体制を経て、泰時政権に移ります。

 まず泰時は、六波羅に在った叔父時房を呼び戻して連署に任じ、ついで有力御家人や家僚から11名を選んで評定衆を選出しました。頼朝が定めた合議体制は、義時の手によって解体されており、その復活とも見えます。今後の政務は、将軍・連署・評定衆の合議で決することに定めました。また六波羅には弟重時を送り込み、今後六波羅殿も北條一族の世襲によることと定めました。六波羅の権限は強化され、鎌倉政権と同様の組織形態が作られて、一翼を担うようになります。
 ついで泰時は、1232年に御成敗式目(貞永元年通達のため、貞永式目とも)を定めました。頼朝以来の不文法や判例を成文化したもので、51箇条からなります。律令は否定せず容認する中で、「武士の武士による武士のための政治」を意図して定めたことに意義があります。当然ながら、御家人にしか効力は及びませんが、守護・地頭・所領・刑罰など多岐に渡っています。その後も式目は追加に追加を重ねて、重みのある法典に成長していきました(貞永式目に対して追加式目とも)。
 その後の泰時は目立った動きはなく、19年の治世に及びました。1243年には三代執権経時が誕生します。同年に鎌倉(長谷)大仏が建立されました。経時は病気がちであるために引退を表明したところ、一族の名越光時と前将軍頼経のクーデター計画が発覚・制圧される事件(宮騒動)などがありました。事件をくぐり抜けて1247年、経時の弟北條時頼が執権に就任し、新しい時代が幕開けます。

 時頼就任の年、三浦泰村がクーデターを起こしました(宝治の乱)。三浦氏は鎌倉に残った唯一の大豪族で、一翼の和田氏を見捨てたものの、なお北條氏に次ぐ勢力を備えていました。外祖父の安達一族を後ろ盾として、三浦氏を打ち倒した時頼は、得宗体制を盤石に変えました。これは陰謀というよりも、三浦一族の焦りが招いた結果のようです。1252年には五代将軍藤原頼嗣を降ろして、後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を六代将軍に据え、皇室との宥和も図るなど・・・北條氏の全盛時代を演出します。
 時頼は、皇位継承にも口を挟み、一族内の結束を高めるなど政治力を発揮し、悪党退治令や庶民救済策(これが諸国遍歴の伝承を生んでいます)、あるいは評定衆設置による御家人訴訟のスピード化なども行っています。しかし在位10年で唐突な出家して、跡目を一族の北條長時に譲りました。得宗体制が事実上歪められた瞬間から・・・北條家の隆盛も下り坂に掛かってきます。

99.12.30

補足1
 時政以降の派生氏族には、阿曽氏・伊具氏・大佛氏・金澤氏・極楽寺氏・桜田氏・佐介氏・名越氏などがあります。このほか赤橋家など通称が用いられたりもしますが、基本的には派生氏族の名も通称の意味合いが強いようです。したがって分家はするものの、得宗家の支配下に置かれたことに違いはなく、同時に得宗家を相続する資格もあったと見るべきでしょう。

99.12.30

補足2
 宮騒動は、泰時の弟朝時の子(名越)光時が執権の継承権を主張したことが発端です。家系図上からは読みとれませんが、朝時の方が泰時より血筋が良かったようで、一族間でも泰時か朝時かで意見が割れたようです。結局は義時が泰時を選択したのですが、光時からすれば正当な権利を奪われたと映っていたようです。その後は時氏、経時と長子相続が続きますが、経時が引退するのなら自分にも継承権が出て来るというのが、光時の意見だったようです。
 光時には、無理矢理引退させられた前将軍頼経が荷担したことから、有力御家人の幾人かが協力を約束し、お家騒動に発展する危険がありました。しかし時頼方が先手を打って封じ込めに成功し、光時は出家し、その弟時幸は自害、頼経は京に送還・・・と成りました。結果として得宗体制が確認され、執権の権限は強化されます。

 ところが時頼は唐突に出家を申し出て、執権職を長時に譲ります。長時は泰時の弟重時の子で、光時には従弟に当たる人物です。宮騒動後に重時を執権代行に任じて、2執権体制を意図しており、時期執権を長時とする申し合わせがあったのかも知れません。長時の後は重時の弟政村が嗣ぎ、ようやく時頼の子時宗に執権職が帰ってきます。義時の定めた得宗制度が崩れたことが、執権政治に歪みを生むようになったのです。
 時頼の出家の理由は、謎の高熱を伴う流行病だったとされています。娘を失い、自身もかなり患ったようです。出家の効があったのか完治し、その後は一種の院政を敷く形になっています。

00.01.01

補足3
 三浦義村は、この時代のキーパーソンです。三浦一族は相模の名族で、三浦半島を基盤として東相模一帯を支配していました。鎌倉に近く、頼朝挙兵でも当初から協力しています。しかし、当主義明は石橋山の合戦に協力できず、単独で平氏を迎え撃って自刃しました。
 その後、義明の子義澄、孫義村の三浦三代で源氏三代を支えて、北條氏に次ぐ大豪族と成っています。しかし、一族の和田義盛に謀反の嫌疑が掛けられた和田合戦で北條氏に味方し、実朝の暗殺犯とされた公暁を見捨てるなど、信用を落とす行為が目立ったようです。さらに承久の乱で上皇の依頼を受けると見せて裏切るなどの行動も見せました(当時上皇側には義村の弟が加わっていた)。
 義村の子泰村は北條氏の独裁に反発し、宮騒動では頼経方に荷担しました。しかし事変の直前に時頼方に寝返って、頼経方は早々と窮地に追い込まれました。寝返りで辛くも逃れたものの、今度は泰村の弟光村が頼経と通じてクーデターを意図しました。時頼は格好の口実として、三浦一族の討伐を決意し、巧みな外交戦術で封じ込めた後に三浦一族を根絶やしにしました。これが本文の宝治の乱です。

 三浦一族は地勢的に有利な位置を占め、和田氏を失っても十分な一族と兵力を備えていたようです。もしも義村が明確な意志を持って北條氏排除に動いていたなら、あるいは得宗体制は崩壊していたかも知れません。もっとも統率者無き鎌倉政権も同時に崩壊して武家社会は再び訪れなかったかも知れませんが・・・。
 また三浦一族はその後も存続しています。一族郎党の多数を失ったものの、相模の一豪族としての地位は保ち、戦国初期に三浦道寸が北条早雲に滅ぼされるまで、名族としての地位は残りました。ただし、再び歴史の檜舞台に上ることはありませんでした。

00.01.01
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