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日本史の研究No.17
鎌倉幕府は無かった

 こんなことを言い出すと、また抗議があるかもしれませんが、日本の歴史上鎌倉幕府なるものは存在しませんでした。その根拠は、当事者である将軍も執権も公式記録に幕府という名称を残していないからです。後の時代、足利尊氏や徳川家康は征夷大将軍に任ぜられて武家政権を確立しましたが、源頼朝は武家政権を確立した後に征夷大将軍として追認されたので、成立の背景がそもそも違っていたのです。
 では、我々が鎌倉幕府と呼んできたのはどういう存在だったか、ということを考えてみます。それは鎌倉殿(源氏の統領)と、その郎党(家人)によって形成された私的支配体制だったのです。しかも支配が及んだのは、全国に散らばった武士とその領地に対してだけでした。また成立当時は西国の多くに源氏の支配権が及ばず、京都以東に限定的に及んだに過ぎません。
 頼朝の初期の郎党は、鎌倉武士団を形成する地方領主達で、彼らを御家人と呼んで処遇しました。具体的には、本領を安堵し功績に応じて新領を配分する御恩と、それに応じた働きをする奉公と、によって結ばれた主従契約でありました。やがて支配地が拡大するに従い、御家人の一族が各地に散らばったり、新たな御家人が加わったりする形で、全国に勢力が扶植されました。

 鎌倉殿の支配権が全国に確立されるのは承久の変以降のことですが、それに先だつ1185年、頼朝が諸国に守護と地頭を置くことを、朝廷に認めさせました。守護設置の名目は逃亡中の義経を探索・追捕することで、地頭設置の名目は今後の戦費調達でありました。名目はどうあれ、頼朝の御家人である守護や地頭は各地で武士勢力ひいては鎌倉殿の支配権拡大に奔走しました。義経は1189年に衣川で討たれていますが、その後も守護と地頭が居座ったのはご存じのとおりです。
 さて支配権が確立し、安定期に入ると御家人同士のトラブルが増加してきます。頼朝にとっては家内のことは家内で処理する必要がありますから、政所(公事・勲功・安堵・官途・寺社・御所・勘定・蔵管理・祈祷などを担当)、評定衆(評定・造営・作事・中持・進贈物・諸行事を担当)、問注所(主に裁判・仲裁を担当)、侍所(番侍の管理を担当)などを設けました。このため幕府という行政機関のイメージが形成されていますが、実体としては家内問題処理を目的とした私的機関です。

 私的機関とはいえ、京都以東をほぼ直接支配に置いた独立政権の様相を呈しており、純粋な武力では朝廷を圧倒していました。それでも頼朝としては朝廷を立てる必要がありました。第一に畿内や西国にも御家人が在り、朝廷との直接対決では彼らの身が危険に曝されます。第二に東国でも朝廷の権威を敬う者や中央貴族と結びつきの深い者が在り、武力対決では足並みが揃わない可能性があります。第三に頭上に天皇を戴いておく方が、何者かによって鎌倉殿の地位が侵される可能性が少ないということもあります。第四に累代の源氏が朝廷を担いできたという縁を守る必要性を感じたと言うこともあるでしょう。
 そこで、鎌倉殿が朝廷の一応の支配下にあり、かつ私的機関が公務を代行するという名目を得るため、頼朝は征夷大将軍を欲しました。しかし後白河法皇は反対し、1190年に頼朝が上京した際にも右近衛大将を授けるに留まりました。頼朝は下京の際に右近衛大将を返上して意趣返しをしています。正しくは、非常官職である征夷大将軍よりも右近衛大将の方が上位職ですし、右近衛大将としても武家の統領としての地位は確保されます(つまり幕府の開設も可能です)。
 しかし頼朝は、法皇崩御後の1192年に、征夷大将軍の宣下を受けました。そこまで拘る必要性はあったのでしょうか。征夷大将軍に初めて任じられたのは大伴弟麻呂と伝わり、坂上田村麻呂を以て武人の鑑と伝えられています。武人としての名誉職として憧れたという理由があるかも知れません。頼朝に先だって上洛した木曽義仲が、久しく廃止されていた征夷大将軍職を求めて宣下を受けたのは、田村麻呂に習いたいという無邪気な理由だったようです。
 頼朝の狙いは少し違ったかと思います。右近衛大将も征夷大将軍も同じ将軍ですが、前者は正官のため在京の義務が生じ、後者は外官のため任地(京の外側)で活動できます。鎌倉で指揮を取るには後者が望ましいことは間違いありません。また征夷大将軍が蝦夷討伐の任務を持っていた当時は、兵や物資の調達に特権がありましたし、恩賞なども全て代行(仲介)することが可能でした。義仲が古い官職を復活させたのを幸いに、その官職を以て私的支配の追認を受けたがっていたと見るのが妥当だと考えます。

 幕府とは、白幕を張り巡らし大将が陣取った本陣のことを指します。転じて将軍の本拠地を幕府と呼んだようです。このため、鎌倉殿の在所である大蔵を大蔵幕府と呼んだこともあるそうですが、後の江戸幕府のような組織立った機関を幕府と呼ぶこととは意味が違っています。鎌倉時代の武家政権は鎌倉殿を統領とした私的機関しか持たず、全て内々の運営が図られていたに過ぎません。したがって、日本史上に鎌倉幕府というものは無かったという結論になります。

99.07.03
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